続・大人のためのゴシックロリータ

 海外勢が日本の育て上げてきたゴシックロリータの美学を収奪してないか、いっぽう日本ではゴシックロリータを着る人たちが低年齢化してないか、と昨日書いた。もちろんオリジナリティーに富んだ服づくりをしてる人も日本にはいる。たとえばメタモルフォーゼ(metamorphose temps de fille)だ。ここの服は一目見れば、伝統的な服への理解が深くて的確だとすぐにわかる。ただ、その上で当時なら絶対にあり得ないヒネリをいくつも加えてある。異なる時代のモチーフの組み合わせ、当時ならありえない生地の使用、旬なモチーフ、たとえば今年ならマリンの導入などだ。


 たとえばセーラー服のイメージを取り入れながら作った服。もともとセーラー服は水兵の服、つまり男が着るもので、これが女子学童の制服になったのは大正時代の日本でのことで、そこには関東大震災が深く関わっている。極東の近代的な制度である「学校」という場所に生まれた女子のセーラー服、それを18-19世紀の貴族階級のドレスのシルエットと一体化させる。メタモルフォーゼの服に私たちが見るのは、ありえなかったもう一つの服飾の歴史、可能世界の少女像だ。これは伝統の墨守からだけでは絶対に生まれえないし、単にでたらめをやっていたのでも生まれない。伝統を正しく知り、それを組み替える態度から生まれるのだ。


 フェイクだがキュート、と私が言うのは、まさにメタモルフォーゼのような服のことだ。それは伝統の中には存在しないが、もし世界の進路が変わっていたら、あり得たかもしれない服なのだ。そこにはメタモルしか持たないオリジナルな方法論がある。前にも書いたが、本当に優れたデザイナーは、こうした独自の語彙や世界観、方法論を持っている。それを持てるかどうかが勝負所で、メタモルフォーゼの服が優れているからといって、その一部をパクってつなぎあわせても仕方がない。自分の方法論を持つことが大事なのだ。


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 服というのは文学に似ている。文学を読むことは誰にでもできるのと同じで、服を着て楽しむことは誰にでもできる。ところが、文学が誰にでも書けるものではないように、服も一定の技能を身につけ、独自の思想と方法論を持った人にしか(本来的には)作れない。もう一つ服と文学が似ているのは、語彙の豊富さが問われるところだ。特にゴシックロリータの服は、いわば古語で書かれた現代文学のようなものだ。そこでは伝統的な服飾上のモチーフをどれだけ知っているか、つまり服飾上の語彙の豊富さが問われるのだ。文学に例えるなら、三島由紀夫マンディアルグ倉橋由美子平野啓一郎といったところか。


 こうした作家たちは古典に通じ、その語彙や物語構造、世界観を知悉した上で、それを彼らなりの方法によって組み替え、存在しえなかった物語を紡ぎ出した。つまり服飾に置き換えるなら、古典的な服飾の知識がなければ不可能な作品づくり、ということになる。メタモルフォーゼの服はきちんと源氏物語を読み、現代哲学で解釈して作ったような服だ。ところがマンガの『あさきゆめみし』だけ読んで、マンガしか読まずに作ったような服があまりにも多い。これじゃ大人は離れていくし、もともとの本場の人間には太刀打ちできない。


 そしてもう一つ文学の例で言うと、三島と倉橋、平野の方法論はそれぞれ異なり、誰の真似でもないものになっている。これと同じように、人の真似でなく自分なりの方法論を持たなければ、自分の服づくりはできない。メタモやh.NAOTOalice auaaといった真っ当なブランドが、それぞれ異なる語彙と方法論を持つように、だ。だが悲しいかな、ゴシックロリータの分野に限らず、コピーのコピーのまたコピーみたいな服は世の中に溢れてて、そこには何の方法論もなく、ましてや古典的語彙への精通などハナからない。個性的なデザイナーの要素だけパクってつなぎあわせたような服は数多い。買う側もそこを見抜きながら買って欲しいのだが、往々にして安い方に釣られていく。これが市場の衰退を引き起こす。こういう悪循環だけは繰り返したくない。


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 話をメタモルフォーゼに戻すと、私は30を過ぎてここの服を買ってた人を知っている。それはここの服が大人の鑑賞眼に耐える、きちんとした方法論を持っているからだ。思想を備えた服であれば、簡単には「卒業」されない。くどいようだが、自分の思想が大事なのだ。