高原英理さん「日々のきのこ」『文學界』

今月の『文學界』に、高原英理さんの新作短編「日々のきのこ」が掲載されています。

http://www.amazon.co.jp/dp/B0030UNQ4Y

どうやら舞台は、森のような巨大きのこが林立し、街中がきのこに浸食された世界。きのこの放つ燐光で、夜もなお昼のように明るく、街のあちこちで動植物、そして人間が、寄生したきのこや菌類に犯されていく。食べるものはもはやきのこ以外になく、生き残った人はきのこを食べながら、奇妙な「ルール」を守って生き続けているのですが、そのルールとは、そして人類の行く末は、と問うものです。

作中出てくる擬音語、擬態語は、尾崎翠の『第七官界彷徨』を彷彿とさせつつも、なにせきのこ世界なので、それとはまた違った異様な気配が漂います。とにもかくにも、きのこの異様な生体を追うだけで、疑似視角的な快感が押し寄せてきます。

途中、数カ所ひどく意味の取りにくい部分が出てくるのですが、実はその「読みづらさ」こそが、このきのこ世界を貫く異様な「ルール」の伏線、あるいは暗示になっている。実は、この作品の文体そのものが、このきのこ世界によって生み出されたもの、というか、きのこによって浸食されたことで生まれてきた文体が、この作品自体を支配しているのです。

読みようによっては、あるいは書きようによっては、スティーブン・キングのホラーのようになりそうな題材ですが、ここではその題材が、文学とは何か、言語とは何かという問いと、直接つながって融合し、伸び放題に繁茂している。白鯨における鯨の博物学的記述が、神と人間の対峙を暗示するのと同じように、ここではきのこをめぐる「驚異の部屋」的な光景の記述が、そのまま特異な言語観、文学観を指し示している。

この作品の示す終末論的な光景は、たとえばJ・G・バラードの『結晶世界』のような作品を彷彿とさせます。バラードは崩壊する世界のなかで生きる人間の心象風景を描いて、当時「ニューウェーブSF」と賞賛された作家です。けれども高原さんの作品は、それよりもっと徹底して、作品自体を記述する言語そのものが、終末論的世界によって、著しい変形を受けている。そのありさまは、かつて作家のウイリアム・バロウズが唱えた「言語=ウイルス説」を彷彿とさせます。

人間が言語によって思考し、物語を綴るとはどういうことなのか。そんな問いにまで踏み込んだこの作品は、近年少なくなったポストモダンな問いを孕んだ作品だと思います。是非ご一読をお勧めします。