やなぎみわ×鷲田清一

西広域機構というところが企画した催しで、やなぎみわさんと鷲田清一さんのレクチャーを拝聴してきました。お二方の話の中心は「美しいもの、綺麗なものばかりではない現代美術に触れることで、快適さばかりを追い求める現代社会の仕組みから逃れられるのではないか」ということでした。

鷲田先生曰く、現代の社会はみなが快適さを追い求め、快適でないと不満を言う。その極端な例がクレーマーではないかとのこと。現代美術はそれとはまったく逆に、通例の「美」の基準を外れたものが提示される。受ける側はなぜそれが美術なのかを、自分自身の頭で主体的に考えなくてはならない、というわけです。

ただし、やなぎさん曰く現代美術は「一部のブルジョワの趣味嗜好に供するもの」という側面も強く、なかには順番待ちの客のリストを果てしなく抱え、次は中国に発注して作ろうか、などと言っている、マスプロ志向の作家もいる。それは「大衆的な快適さ」とは真逆でありながらも、一部ブルジョワにとっての「快適さ」に奉仕する行為ではないか、というわけです。

いずれも共感するところの多い議論で、特に後者は納得というか、ときたまオープニングなどで、うんざりするほど下品なコレクターの姿を何度か見かけているだけに、これは本当に納得です。でも、これはコレクターに限りません。私は一度とあるパーティーの席上で、ある雑誌の編集者から「ああ、別にあの人は作家だからほっといていいよ、彼のいうことなんか聞かなくても」という、信じ難い暴言を聞いたことがあります。若い貧乏作家の言うことなんか記事にしてもしょうがない。それよりギョーカイの動向を左右するギャラリストやコレクターの話を聞いて来い、というのです。私は以降、その人とは一度も仕事をしていません。

要するにこういう人たちにとっては、アートは暇つぶしのパーティーグッズに過ぎず、その表現の善し悪しより価格の方が重要なモチーフなのですね。「私はこれこれの作品を持っている、君は持ってない」という差別を作り出すための小道具がアートなのであって、それ以上のものではない。別にクルマでもプレミア携帯でも宝石でも自家用ジェットでも何でも良い、たまたまアートであるに過ぎないわけです。こういう類いのアートは「くそくらえ」です。

でも、それではどうやったらこういうクソみたいな人種に絡めとられず、アートとともに生きられるのか。私の場合はたまたま批評という関わり方を見つけましたが、もっと誰にとっても気軽に参加できて、社会にとってポジティブな意味を持ち得る方法はないものか、と考えますが、なかなか思い浮かびません。おそらくそのうちの一つは、先日ご紹介した「京都オープンスタジオ」なのだと思うのですが……。

京都オープンスタジオ http://d.hatena.ne.jp/higuchi1967/20100214