美術、ルールのないチェスの盤面

 今日はインタビューやらグループ展やら個展やら、なんかいろいろありすぎた一日だった。良い一日ではあったけど、ちょっと情報過多だったのは事実。震災以前だったら平気で処理してた情報量だが、いまはひどく骨が折れる。映画も見てるしテレビも見てる、ラノベも読んでるし音楽も聴いてるが、美術になるととたんにキツい。なんでこうも美術になると、負荷が高く感じられるのか。たぶん美術というものが、意味が一義的に決定できないジャンルだからだろうか。


 たとえばある画家が花を描いたとして、それが嫌悪の対象なのか魅惑の対象なのか、絵画の場合は決定しにくい。映画やマンガなら前後の文脈から大まかには意味が決まるが、美術の場合その振れ幅が極端に大きい。たとえば近世オランダの花の絵は「死」を意味する象徴だ。この時代のオランダの絵には、楽器の絵や食卓の絵、宝石の絵なんかにも、やはり「死を想え」というメッセージが隠されている。描かれているのは富の象徴、だが背後には死の匂いがあり、どこか暗い印象がある。現代美術でも同様の現象はいっぱいあり、作家が肯定的に描いているのか逆なのかは明示されない。


 ほんとは文学でも優れた作品であれば、そうした輻輳した意味というのがあるのだろうけど、美術の場合はそれが甚だしい。本来このくらい言語で語るのにふさわしくないものも、実は珍しいのじゃないかと思う。極端に言えば、まったくの無意味と直面する体験とさえ言えるかもしれない。たとえば厚地朋子の《ルーラル》という作品。 下のサムネールで左から四番目をクリックして欲しい。


http://bit.ly/iNBGDP


 クリックすると、田舎の風景を描いた絵が出てくるはずだ。そこに描かれているのは単に田舎の絵で、タイトルも「田舎」というだけの意味でしかない。では、これをどう受け取るか。ある世代以上の人間にとっては、それはお世辞にも牧歌的とは言えない、荒廃した農村の風景に見える(私もその一人)。ところが描いた作家自身は、特段これを荒廃した光景とは考えておらず、単に「ださい田舎」くらいの意味しかない。整然とした棚田や手入れされた里山の美しい光景を知る世代にとって、《ルーラル》は紛れもない荒廃を意味するが、若い厚地朋子にとってはそうではない。では、年長世代の解釈は間違いなのかというとそうでもなく、どちらも正しい。これが美術のややこしいところだ。


 結局のところ美術作品というのはチェスの駒のようなもので、作家と観客はその駒を挟んで、実に複雑なゲームを展開している。同じ駒の持つ意味が、時には真逆だったりする。しかも美術はチェスと違って、そこにふらっとやってきた第三者が駒を動かすことさえあるのだ。キュレーター、批評家、偶然いあわせた観客、隣りに並んで展示された作品の制作者。こうしたプレイヤーが好き勝手に文脈を作り、複雑怪奇なプレイを展開していくのが美術というゲームの盤面で、本質的には誰もその行方を制御することはできないのだ。一体なんという異様な世界なのか。


 美術作家の小沢剛はかつて「同時に答えろYesとNo!」という個展を開いた。やはり美術作家の内藤礼は「作家は自分の作品について、それほど多くのことを知らない」と語った。美術とは無限の意味の集積であると同時に、まったくの無意味でもある何ものかなのだ。美術を言葉で語るというのは、そうした「物自体」が露呈したかのような物体を、無理矢理に世界のコンテクストに着地させる作業だ。したがって世界そのものがある程度安定してないと、不可能に近い難行になる(はずだ)。で、いまその世界の地盤そのものが壊れている。一体何をどうやって語れというのか。


 こと美術に関して自分が約二カ月以上も失語状態になってる理由は、大まかに言うとそういうことになる。今日は既知の作家ならある程度平静に見られるということがわかり、それは大きな収穫だったが、未知の作家だと何をどう考えていいのか、依然まったくわからなかった。この状態でフェアになんか行っても、まず何も考えられないだろう。ひとまず会場に行けるようになっただけ、自分的には長足の進歩だ。世の中自体の地場が安定しなければ、結局のところ何の判断も下せない。本格稼働はもう少し先になりそうだ。明日が今日よりいい日になるように祈ろうと思う。