村上春樹と殺される王

 村上春樹関連のまとめ、補足。 羊という動物は、戦前に軍部が防寒用の毛皮を取るために飼育を推奨した動物だった、とのエピソードが「羊をめぐる冒険」には綴られている。我が国の綿羊産業の歴史のなかで、実際に軍需との関連がそれほど強固だったかどうかは、私の力量不足ではっきり調べられなかった。だが、日本政府がわざわざ戦前に官営工場まで作って、国策としてウール産業を推進したのは事実のようだ。

「ウールの歴史 日本編」
日本毛織株式会社サイト
https://bitly.com/q63TND


 「羊をめぐる冒険」の終盤には「羊男」と名乗る奇妙なホームレスが出てくる。全身をすっぽり羊の毛皮で覆ったこのホームレスは「戦争が怖いから」という理由で、人里離れた森の奥で暮らしている。史実としてどうであったかはわからないが、少なくとも春樹文学のなかにあっては、羊と戦争は分ちがたく結びついているのだ。


 このように「羊をめぐる冒険」においては、戦前的な国家主義の象徴として「背中に星のある羊」というモンスターが描かれている。先にも述べた通りこの三部作では、70年代初頭の安保闘争への敗北が、通奏低音のように所々に顔を出している。もしも70年の安保闘争が「父親世代の戦前的遺制との闘争」であったとすれば、「羊をめぐる冒険」は二重三重の意味で「父との戦い」の物語であったということになるだろう。


==================================


 そしてもう一つ今回の再読で発見したのは、「羊」のラスト近く、羊に寄生されてしまった友人の「鼠」が、その机の上にコンラッドの小説を読みかけのまま置いていた、という描写だ。この書物はおそらく『闇の奥』だと思われるが、この小説は映画「地獄の黙示録」に影響を与えたことでも有名な書物である。そしてこれと似た描写がやはり「1Q84」にも出てくる。「1Q84」でリトルピープルの宿主にされてしまった新興宗教の教祖は、人類学者フレイザーの著書「金枝篇」を引用しながら、リトルピープルの存在を論じる。そしてこの「金枝篇」もまた「地獄の黙示録」に影響を与えた書物として知られる本なのだ。


 もう一つここで付け加えておくと「1Q84」でこの教祖が暗殺されるシーンの描写は、「地獄の黙示録」においてカーツ大佐が暗殺される場面と非常に良く似ている。試しに一度、この場面をDVDでご覧になってからこの場面を読むと良い。驚く程よく似た雰囲気があるのがわかるだろう。「金枝篇」にせよ「闇の奥」にせよ「地獄の黙示録」にせよ、いずれもテーマとするところは同じで「殺される王」という神話的な類型をメインテーマにしている。王が老いてくると刺客が放たれ、暗殺に成功した者が次の王となる、という伝説だ。


 「1Q84」も「羊」も、いずれも父殺しの物語だ。主人公は父に捨てられた捨て子たちであり、父性的なモンスターと闘って生還する。だが、いずれもそのクライマックスの場面では、「殺される王」の伝説を思わせるモチーフが顔を出すのだ。これは一体何なのだろう。「殺される王」の伝説では、王を殺した者は次の王になる。村上春樹は父王的なモンスターを殺した結果、自分自身が父王的なモンスターになることを恐れているのではないか。春樹作品における「金枝篇」や「闇の奥」、「地獄の黙示録」の引用は、そんなことを思わせる。