アート=卓袱台ひっくり返し説

 最近大荒れの俳句界隈を見ていてふと思ったのだけれど、たとえば私が「いまの現代美術業界は腐ってるぜ!」とどこかに書いたとして、こんな大騒動になるだろうか。たぶんならないと思う。それは私の発言の影響力が小さいから、誰も相手にしないという理由だけではない。俳壇というものがどういうものか正確には知らないけど、美術界にも昔は「画壇」というのがあって、公募団体展を中心に活動してきたのだけれど、気がついたら今やむしろ、そういう画壇から外れた人の方が主流になっている。いわゆる「外の人」の方が、むしろ今のアートでは主流なのだ。


 現代美術にはいろんな問題が大小様々ある。お金の問題。表現規制の問題。いわゆる「アートワールド」と一般社会の関わりの問題。美大のあり方やそこでの教育の問題。批評だっていろいろと問題はあるし、みんな内心どこかで「これじゃいかんなあ」と思っている。で、私のような人間が「これでいいのか現代美術」みたいなことを書くまでもなく、みんな頭を悩ませているし、どうしたらもっとうまくいくか、毎日試行錯誤している。なので、多少のことを書いたところで「まったくそうだよなあ」くらいで終わってしまう。


 というか、アート関係者が集まったら、大抵の場合はそういう話になる。意外に作品の話はしない。これ、最初はもの凄く違和感があったのだけれど、最近は慣れてきた。アートの世界では作品の話の方がむしろセンシティブで、あんまりうかつなことは言えないのだ。むしろ「いまの美術界は間違ってるぜ!」と大胆にぶち上げた人の方が、アートの世界ではスターになっていく傾向が強い。椹木野衣さんしかり、村上隆さんしかり。海外ではYBAの人たちがそうだし、最近だとバンクシーなんて、作品そのものが異議申し立ての塊だ。というか、よくよく考えたらアートの歴史って、そういう「卓袱台ひっくり返し」の連続なのだ。


 少なくとも20世紀以降、アートの世界でスターになった人はみんなそうだ。ピカソデュシャンも具体ももの派も、森村さんも会田さんも、みんな卓袱台をひっくり返してきた。しかし、これってアートの世界だけの話なのだろうか。ロックの世界とかどうだろう。演劇やダンスの世界ではどうだろう。あるいは文学の世界では? 卓袱台ひっくり返した人がスターになる世界って、意外に芸事では多いような気がする。


 アートの世界に話を戻すと、いまの日本のアート界は、アートという家の中にある卓袱台をひっくり返してもしょうがないので、広い世間の卓袱台をどうひっくり返そうかと狙っている節がある。単純化して言えば、文化面でなく社会面にどう載るか、という勝負と言えるかもしれない。chim↑pom岡本太郎壁画の一件しかり、例のふくいちのカメラに映った「指差し男」の件しかり。状況としては70年代の街頭を舞台にしたアングラ劇のあり方に似ているかもしれない。こういう傾向はたぶん今後もしばらく続くだろう。ひっくり返す卓袱台がどこまで大きくなるのか、その行方を楽しみにしたい。