一人快芸術

先だって広島現代美術館から「一人快芸術」という展覧会の案内が届いた。

http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/main/next_exhibition.html

ちょっとこれじゃぁわかりにくいとおもうけど、シュヴァルの理想宮とかヘンリー・ダーガーの作品群とか、そうした「他者の批評的まなざしを必要とせずに作られてきた作品群」を中心とした展覧会のよう。たとえば「沢田マンション」の写真なんかが出品されている。ちなみに沢田マンションというのは、まったくのど素人がゼロから作り上げたマンションで、増改築を繰り返したため迷宮のような構造になった「日本の九龍城」とも呼ばれるマンション。ちゃんと人が住んでいる。

http://d.hatena.ne.jp/LoveBeer/20081227/1230383137

あるいは「平田一式飾」と呼ばれる、伝統的な細工物。自転車の部品でエビを作ったり、古い瀬戸物で不動明王を作ったりと、とんでもないことをやってのける。こういう細工物が江戸時代に盛んであったことは、私も「死想の血統」の少女椿の章で取り上げたけど、まさか現代にも継承している地域があるとは、夢にも思っていなかった。

http://manjimaru.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_334f.html

このほか福住廉さんが、その著書で取り上げた、ガムテープフォントの「修悦体」や、梅佳代さんの写真などが出品されているらしい。私は行くのは無理そうだけど、福住さんはこの展覧会は、絶対取り上げて何か書くべきだと思う。

こないだの森本絵利のときも思ったけど、アウトサーダーアートと「普通の芸術」を区別する意味は、いま次第に失われてきてると思う。ちなみに、森本絵利というのはこんな人。

http://www.dnp.co.jp/artscape/exhibition/curator/nk_0706.html

こういうものを「ボーダレスアート」と呼ぶのか「限界芸術」と呼ぶのか「一人快芸術」と呼ぶのか、それは、これからみんなで考えていけば良いことだけど、障害の有無とは無関係に、他者のまなざしを必要としない、そういうアートの存在に、だんだんみんなが気がつきはじめた、ということなんだと思う。それがこの社会で何を意味するのかは、まだよくわからないけれども。