村上春樹と「毒になる親」

 わけあって村上春樹の初期三部作を再読していて、面白いことにいくつか気づいた。一つは70年安保の挫折体験が背後にあるらしいということ。学生時代に読んだときには、まるで気がついていなかったけど、これはモロだ。もう一つは作中に登場する架空の作家、デレク・ハートフィールドの自殺の場面が、古賀春江の「窓外の化粧」と非常に良く似ているということ。ハートフィールドはエンパイアステートの屋上から傘をさして飛び降りるが、これは古賀春江の絵にそっくりだ。

古賀春江「窓外の化粧」
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 もう少し本質的な話をすると、「1Q84」と「羊をめぐる冒険」はほぼ同型の話になっている。両方とも得体の知れない存在が出てくるところはまったく同じ。「1Q84」ではリトルピープル、「羊」では背中に星形のある羊。これが社会的な暗部を担う人物に取り憑く点も同じ。リトルピープルや星形羊はいずれも古い宿主を亡くし、次の宿主を捜している。


 それら謎の存在の正体を探り、その魔手を逃れようとするスタイルで、両方とも物語が進んでいく。いわば聖杯探求譚と竜退治の混合だと言える。主人公が男女のカップルというパーティー形式であるところも同じ。最後はいずれも主人公たちが魔の手を逃れるハッピーエンドだが、その替わりに第三の人物が、得体の知れない存在の宿主にされてしまう。「1Q84」では牛河、「羊」では鼠。どちらも動物の名前が入っているのが面白い。


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 「1Q84」にはもう一つ、こうしたメインのモチーフとは別の物語が組み込まれている。死にかけた主人公の父親が、生き霊となって主人公の知人たちを脅かすくだりだ。メインの悪玉であるリトルピープルと、この父親の生き霊は完全に別物なので、このエピソードはいっけん唐突な印象を与えてしまう。だが、「1Q84」や「羊」の登場人物について振り返ると、なぜこのエピソードが挿入されているのかという理由が、非常にクリアに見えてくる。


 これらの小説の登場人物は、父、あるいは親と敵対して放逐された、一種の捨て子たちとして設定されている。「羊」の主人公は結婚を親に反対されて絶縁状態にある。「1Q84」の主人公もまた、NHKの集金人であった父親が生き霊となって、死の寸前まで主人公の周囲の人物の家を集金に周り、暴言を吐いて脅かす。つまり、いずれの作品の主人公も、親から見放され迫害された捨て子たちなのだ。つまりこれら両作は、捨て子たちが魔界をさまよい、魔物の正体を解き明かして生還する、貴種流離譚なのである。


 村上春樹の小説には、親子の葛藤を抱えた人物が多い。たとえば「羊」に出てくる「鼠」という人物は、親から過剰な金をもらってスポイルされている。「1Q84」のヒロイン「青豆」もまた、宗教に凝り固まった家族と絶縁状態にある。また、この作品では悪役である牛河も、非常に醜い容貌のために家族中から見放された人物として描かれている。村上春樹の小説は、いずれも捨て子たちの物語なのだ。その背後には子どもたちを見放し放擲する親たち、いわゆる「毒になる親」の存在がある。


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 村上春樹の小説の大きな部分を占めるのは、こうした「毒になる親」の存在だ。そこから翻ってもう一度「1Q84」や「羊」を眺めなおすと、面白いことに気づく。いずれも正体不明の存在の宿主にされるのは、強力な集団のリーダーであり、強健を揮って社会や集団を服従させる、父親的存在なのだ。ちなみに村上春樹の訳書にはマイケル・ギルモア『心臓を貫かれて』というのがあって、これは三代に渡る超毒親とその息子、孫の引き起こした悲劇を描いたドキュメンタリーだ。また、村上春樹とその父親の関係については、面白い証言がある。

村上春樹はなぜ両親について語らないのか」
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 短絡した理解は好ましくないかもしれないが、私はリトルピープルや羊といった得体の知れない存在の向こうに、どうしてもこうした「毒になる親」の影を見てしまう。その魔手から主人公カップルが逃れる物語を書くことによって、村上春樹は密かな自己治療を行って来たのではないか。そんなふうに考えている。