ゴシックとコンテンポラリー

 ふだんあんまりジャンルの差を意識せず、面白いと思えば何でも書くという姿勢でいる。なので手当り次第にあれやらこれやら書いてきたのだけれど、ふと思い立って自分の仕事を一度整理してみることにした。もともと自分はゴシックな分野の作家に関心を持って仕事を始めたのだけれど、結局のところいわゆる「普通の現代美術」の仕事と「ゴシック系」のそれと、どっちが多いのだろうと気になったのだ。今年に入ってから書いた商業雑誌やブログの記事を整理すると、結果は概ね次の通りだった。

■モダン〜コンテンポラリー:約5割
contact Gonzo、Jecko Siompo、田辺由美子、高田智美、現代美術二等兵 、柏原えつとむ、平川祐樹、村山知義、インカ・エッセンハイ、スミッソン、中山玲佳、高柳恵里、吉原治良、村上裕二、高橋涼子、パラモデル蜷川実花、笹川治子、友原康博、アバカノビッチ、石子順造藤本隆行、金満里、太田麻里、井田照一、榎忠、もの派


■中間派:約1割
三宅由希子、ヒョンギョン、やなぎみわ松井冬子、プルニー&ゼマーンコヴァー、草間


■ゴシック、サブカル:約3割
椎木かなえ、清水真理、桑原聖美、野波浩、丸尾末広ベルメール、寺山、藤野一友、福長千紗、マンディアルグ仮面ライダーキバ、飯田一史、竹田団吾、玉木新雌、TAVAX、溺れたエビ、尾崎豊石井岳龍


■文学・哲学などそのほか:約1割
池澤夏樹藤野可織ドゥルーズ=ガタリフロイトソフォクレス、タブッキ、坂東三津五郎


 もちろん強引な分類ではあるし、何を持ってゴシック系と言うのかはあまり分明ではないのだけれど、そのことはいったん措く。改めてカウントしてみると、いわゆるモダン〜コンテンポラリーの作家が約半数を占める。もはや自分の軸足は、既にコンテンポラリーに移っているということになる。しかしゴシックとコンテンポラリーの間をわけるものって何なのだろう。


 一言でいえばシュルレアリスムの伝統を受け継ぐ作家たちが、いわゆるゴシック系作家の範疇になるんだろうけど、正直な話このへんの作家に対する、美術界での風当たりというのは、なかなか厳しいものがある。自分にとっての故郷のようなジャンルなので、それは寂しい話ではあるのだけれど、まずはその現実を認めないことには話が進まない。なぜこんなことになったのだろう。


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 戦後の美術界ではアメリカの現代美術が世界をリードして、欧州美術を圧倒していった。市場の規模でも理論面でも、欧州はアメリカに敵わなかった。そんななかで日本でも、シュルレアリスム=古い欧州美術の生き残り、といった感覚が根付いたのかもしれない、というのが一つの仮説。シュルレアリスティックな美意識は、舞踏や演劇のなかではかろうじて70年代末までは生き残っていたけど、80年代の寺山さんの死後はその雰囲気も失われてしまったように思う。かろうじてその空気をいまも引き継いでいるのは蜷川幸雄さんくらいじゃないだろうか。


 もちろん世の中の雰囲気が変わっただけでなく、シュルレアリスムの後継者たる現代ゴシック系作家の方も、戦後はかつてのシュルの作家とは何か違う方向に進んでいったし、いまも進んでいるような気がする。何が違うのかはまだ整理できていないけど、一つには戦前のシュルレアリストが大事にしていた「夢」とか「無意識」とかいった概念を、現代のゴシック系作家たちはあまり重要視していないように思えるのだ。


 たとえばシュルレアリスムが無意識のような上部構造を問題にしていたのだとすれば、現代のゴシック系の作家たちは、たぶんに形而下的な下部構造の問題、たとえば肉体の欠損とか過剰を好む傾向がある。戦後に出てきたモリニエや、ダイアン・アーバスのような作家は、そうしたターニング・ポイントを示す典型的な例かもしれない。あるいは身体改造系の作家たち、たとえばルーカス・スピラなど。


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 それじゃポストヒューマン系、トランスフォーメーション系のコンテンポラリー作家はゴスなのかという難問も出てくるけど、このあたりまだうまい整理が思い浮かばない。ただ、何か違うような気は漠然としている。ヒントはSF性とでもいえばいいだろうか、ある種の物語的な設定を持つものがポストヒューマン系作家なんじゃないかという気がする。


 たとえばあれだけ執拗に傷ついた肉体を描く松井冬子が、コンテンポラリーの文脈でしっかりと受け止められている理由は、まさにそこにあるような気がする。彼女は肉体そのものの欠損や破壊でなく、そこから生まれる「痛覚」という感覚の問題を中心に据えているからだ。


 やなぎみわの上部構造性もまた同様で、確かに彼女はフェアリーテールシリーズで執拗に拷問の光景を描いたけど、のちに演劇に転向する彼女の作品の多くは、豊かな物語性を孕んでいる。つまり拷問にあった肉体そのものの提示でなく、それを包む物語の提示。ここにもゴシックとコンテンポラリーの断層が伺えるように思える。


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 この話、続けようと思えばいくらでも続けられそうだけれど、いったんここで終わりたいと思う。やっぱり未整理の部分が多い。寝苦しい夜明けの思いつきの連投ということで、何卒ご容赦いただきたい。そのうちまたどこかで続きを考えてみたいと思う。