若冲、団塊、老い

 今日ちょっと用事があって、京都の石峰寺というお寺に行ってきました。ここには江戸時代の画家、伊藤若冲が彫らせた五百羅漢の石仏があって、その写真を撮りたいなと思ったのです。ところが残念なことに、五百羅漢の撮影は禁止となっていました。つい数年前までは大丈夫だったのですが、残念無念。でも仏様を久しぶりに拝めましたし、若冲さんのお墓にもお参りできたし、周りの山門などは写真に収められたので、大変良い気持ちで参拝を終えました。



(山門などの撮影はできます。京都市内が一望できてとても美しい眺めです)


 帰りがけにお寺の方が少し話をしてくださったのですが、なんでも近年、写真を撮る方のマナーがあまりにも悪くなり、一律で撮影禁止にせざるをえなくなったのだそうです。そのマナーの悪さというのが凄まじくて、竹で囲ってある中に踏み行ったり、仏様に水を浴びせたり、周りに蝋燭を立てたりするのだそうです。周囲は竹林ですから落ち葉も多いですし、だいいち文化財の周りで火を使うなど常識はずれもいいところです。しかもそれが毎日のように続いたそうなんですね。


 で、そういうことをするのは若者なのかと思っていたら、なんと団塊の世代がこういうことをするのだそうで、この世代の大量リタイアとともに撮影のマナーが急激に悪化したんだそうです。お寺の方の話によると、若い方は注意するとやめてくれるのだそうですが、この世代の方は注意すると逆上して食って掛かるのが特徴だとか。お寺の方だけではどうしようもなくなり、警察を呼んだことも一度や二度ではないそうです。一体どんな騒ぎ方をしたのか、想像を絶します。このお寺の付近は静かな住宅街ですし、大体お寺の中で大声を上げるなど、非常識もいいところです。こうしてやむをえず撮影禁止とした石峰寺ですが、いまだに勝手に入って無断撮影する人があとを絶たないそうです。本当にこうしたことは絶対やめていただきたいと思います。



 さて、そうしたわけで非常に評判の悪い団塊の世代ですが、これは特に団塊の世代だけが傍若無人なのだというわけではなく、おそらくは加齢が原因で起こる、感情の暴発が原因なのだろうと思います。これは私の個人的な観察の結果思うことですが、一般に歳を取ると、周りの状況が目に入らなくなったり、感情の抑制が効かなくなったりすることが多いようです。駅やバス停などで人が並んでいるのが目に入らず、列に割り込んでしまうオバサンをたまに見かけますが、あれなんかはその典型です。歳を取って物理的に視野そのものが狭くなっているので、人が並んでいるのが見えていないのです。しかも感情の抑制も利かなくなっているので、それを注意されると怒りだしたりする。要は年寄というのは子どもと一緒で、周りが見えず、自分中心になってしまう。これは歳のせいで起こるもので、ある意味で仕方のないものなのだと思います。


 私も幾度か展覧会などで、展示してある作品が自分の好みと違うと大声を出しているご老人などを見たことがあります。いま流行りの「暴走老人」ですが、こういうのはもう一種の老化現象なのだと思うしかありませんし、そう思って接した方が、周りの人間も幾分か気が楽になります。実際、ごく凡庸なドラマでぽろぽろ涙を流したり、レストランで水が出てくるのが遅かっただけで激怒したり、そういうお年寄りはよく見かけます。歳を取るとそういうことがどうしても増えるもので、特に団塊の世代は人数が多いですから、それが特に目だってしまうのでしょう。団塊の皆さんばかりが悪いとは思いませんが、やはり人数が多い分、自制をお願いしたいところです。



 しかし逆に言えば、いま常識的な振る舞いをしているつもりの若い方も、歳を取ると感情の抑制が効かなくなる恐れは充分にあります。若いうちから自戒しておいた方が、のちのちのためかもしれません(もちろん私自身も、です)。うまく歳を重ねていくためには、おそらくはそうした自制の積み重ねが必要なのだろうと思います。実際このお寺の石仏は、若冲が晩年にコツコツ作っていったもので、どれも非常に柔和な表情をたたえていて、晩年の彼が辿り着いた禅的な境地を示しています(そうした境地を台無しにするご老人が多いのは悲しいことですが)。願わくは、ここにいらっしゃる仏様のように、安らかで穏やかな老いを迎えたいものだと思います。