「夢をあきらめるな」について

モーニング島田編集長の、
「あきらめなければ夢は必ずかなう」ほど悪質な言説はない、という話について
http://togetter.com/li/265933


 例の「夢をあきらめるな」についてなんですが、あの坂本龍一さんはもともと、民族音楽のフィールドワーカーになりたかったそうですね。つまり最初はミュージシャン志望ではなかったわけ。作家の筒井康隆さんも、もともとは役者志望。美術作家のヤノベケンジさんは、もともと特撮関係の造形をやりたくて芸大に入ったそうですし、人形作家の清水真理さんは、当初は映像関係に進もうとしていた。このほかイラストレーターの中村佑介さんはラジオのDJをめざしていたし、舞台衣裳家の竹田団吾さんは役者としてデビューして、いつの間にか舞台衣裳家になった。夢は夢なんだからあいまいなもので、結構形は変わるもんなんじゃないでしょうか。


 音楽関係めざして路線変更した人は結構多くて、司会業の方で有名な堺正章さんなんか、いまも歌手としてヒットを飛ばしたい夢があるとのこと。インテリアデザイナーの間宮吉彦さんも、やっぱりミュージシャンになりたかったそうです。かくいう私も若い頃は音楽やってましたしね。当初の志と違う方向で芽が出た人はいっぱいいるわけで、柔軟に考えた方が良いと思います。


 ここに「食う」というファクターを絡めると、ねじれはもっとダイナミックになるんですよね。傑作なのが芥川賞作家の円城塔さん。大学で助手として働いていたが食えなくて、なんと生活のために作家になったという方です。NPO「Dance Box」代表の大谷燠さんは、アルファベット型のスタンプづくりで大手百貨店に食い込んで、それで生計を立てていた。美術作家の杉本博司さんは元骨董商。榎忠さんは鋳型の職人。何か別の仕事で食べながら表現活動する人はいっぱいいて、別にそれは悪いことでもなんでもないと思うんですよ。本人が納得してればそれでいい。


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 そもそも「あきらめる/あきらめない」の極端な二分法だけだと、結構しんどい生き方になると思うんですよね。「何となく、こっち方面」くらいにアバウトな考え方で臨んでると、当たらずとも遠からじのところに結局は行き着くんじゃないかな。やなぎみわさんみたいに美術作家としてまず成功を収めて、四十代になってから演劇界進出の夢を叶える人もいるわけだし。人生いろいろ、夢の形もいろいろです。


 あと、この問題でいろいろ悩んでる人は、映画「エド・ウッド」を見るといいと思います。エド・ウッドという人は、生きてる間はクソ映画監督呼ばわりされて(実際そうなんですが)、死んでからあまりのクソ映画ぶりが評価されたという監督で、映画「エド・ウッド」はその伝記映画。こういう「死んでから評価される人」ってのも、実はいっぱいいるわけですよね。


 ゴッホは死ぬまで弟の仕送りで食ってたし、宮沢賢治も無名のまま37歳で死んだけど、どっちも死後に巨大な栄光を得た。映画「アマデウス」は生前ほとんど評価されなかったモーツァルトと、その友人で才能に乏しかったにもかかわらず時代の寵児になった音楽家サリエリの話。似たような話は文学にもあって、『ボヴァリー夫人』を書いたフローベールは生前ほとんど評価されず、その友人のマクシム・デュ・カンは、当時こそ高い評価を得たものの、現在は忘れられた作家になった。この話は蓮實重彦さんの『凡庸な芸術家の肖像』で読めます。


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 まあ要するに向いてるか向いてないかなんて、生きてるうちには正解は誰にもわからないんじゃないだろうかと思います。いまの売れっ子も100年後には忘れられてるかも知んないし、逆もまた真なりなんだから。結局のところ自分の人生なんだから、自分が好きなように、気楽に生きればいいんだと思いますね。