卒業おめでとう:長文ごめんね

■卒業おめでとう

昨日は大阪コミュニケーションアート専門学校(OCA)の卒業式でした。何もはなむけらしい言葉は贈ってあげられないまま、なんとなく卒業式と謝恩会が終わってしまいましたが、謝恩会なんていう言葉はいささかおもはゆいものがあって、こっちが本当にお礼を言いたいくらいです。この1年間、本当にありがとう。楽しかったし、勉強になりました。

とにかく何がびっくりしたって、こんなに優秀な生徒に恵まれるとは思ってませんでした。特に驚いたのは「聖書を読んだことがある人」と聞いたら、約半分が手を上げたこと。当然のごとく、挙げても一人くらいかな、と思っていたので、あれは驚きました。まじすげーこいつら、と思ったよ。いや、別に聖書を読んでない子はショボイとか、そういう意味じゃないよ。みんなそれぞれ自分の分野でなにがしかの積み上げをもってて、個性的で、知的で、教養があって、しかも大バカ野郎で(笑)、実に面白かったです。いわゆる世間で流布してる「専門学校の子」というイメージとは、まったくかけはなれた大物ばかりでした。君たちは本当に凄いですよ。いや、まじで。漫然と大学に行ってるバカ学生に、君たちの爪のあかを煎じて飲ませたいよ。なので、胸張って社会に出てください。

なかには思ってるような業界に行けなくて、ちょっと凹んでる子もいたけれど、何度も何度も言うように、全然凹むことないって。私を見なさい。最初に入ったのは入社案内や就職情報誌を作る会社で、そのままそこに5年いて、フリーになっても5年間は、アートとはまったく縁のない仕事しかしてなかったよ。初めて雑誌に書いたのは、社会に出てから10年後。そこからアートの世界にたどり着くまで5年、国立美術館の取材が自由にできるようになるまで5年。最初っから書きたいことを自由に書ける人なんていないんだって。

それとね、ほぼ全員、マンガかエンタメ志望の子たちだったんで、授業中には文学とかアート的な方向の話が全然できなくって、文学志向の強かった子にはホントに申し訳なかったな、と思ってます。「こいつ私の作品を全然理解してねーな」と思ったかもしんないけど、実は全然逆で、正直えこひいきしそうで怖かったくらいです。そういう自分を必死に押しとどめた結果、結局1年間放置したような感じになっちゃって、逆にさみしい思いさせたんじゃないかとも思うけど、でも、これはしょうがないんですよ。アートって、文学って、究極的には教えられないし、そういうさみしい思いをしながら、孤独にやってく以外にないものなんです。これは教室ではなかなか言えないことだったので、ちょっとここで説明しておきたいと思います。


■エンタメとアートの違い

エンタメにはきちんとした定石や定番の進め方があります。それはさんざん授業中に説明したので繰り返しませんが、どれだけその定石を数多く自分のものにして、不特定多数の人にウケるものを書けるようになるかが勝負なんですよ。それは、きちんとしたデッサンを描けるようになる、というのと同じで、ちゃんと教えることができるし、学校という場所に馴染みやすい。市販のマニュアル本もいっぱい出てるし、実際の作品を見てもセオリーに忠実なものが売れている。でも、アートとか文学はそうじゃないんです。

アートは、いわば裏切りの世界なんです。私自身、視覚芸術の世界を取材してよく目撃するのですが、この世界は師匠の教えを裏切ってなんぼなんです。師匠と絶縁したり大げんかしたり、何十年経っても恨んでたりする人がいっぱいいます。それはなぜかというと、アートは自分自身の発明した方法で、自分自身の発見したことを描く/書くしかないからです。それは原理的に教えられないことであって、師匠の言うことをまともに聞いてちゃだめなんですよ。

関西の美大のトップ校では、基本的に放置、放任が教育方針なんだそうです。それどころか入学早々の時点で、それまで予備校で受けてきた正確なデッサン力とか美術の知識を、一度完全に解体するところから4年間が始まるんです。私の知人のやなぎみわという作家の場合は、入学早々、えんえん芝居の稽古を2週間やらされた、と言っていました。予備校生活でぎゅうぎゅうに詰め込んだ受験テクニックとは全然違うことを無理矢理やらせて、体の中から完全に追っ払うんですね。で、なにもなくなったところで、あとは勝手にやれ、と放り出す。ひどいよね(笑)。

傍目から見ると「残酷なんじゃないの?」と思うんだけど、結局そうするしかないんですね。自分でゼロから考えなければ、作家としての独創性はできあがってこない。ましてや先生が「ああせいこうせい」と指導して、先生の言う通りに書いていたら、先生のコピーしかできない人間になってしまう。それじゃダメなんですよ、アートって。文学もこれと同じなんです。つまるところ、先生は指導できない。優秀な生徒が出てきたときに、嫉妬したり潰したりしないようにする、というくらいが、せいぜい関の山なんです。

そういうわけで純文志向の子は、1年間放置して申し訳なかったな、と思うのだけれど、実はあれこれ言いたくなるのを我慢して、あえて放置したのだ、と思ってください。そして実は、そういう孤独感とか孤立感こそが、君が今後文学を書いていく上での、唯一の源泉とか材料になるものなんです。人のマネをしたり褒めてもらおうと思ったり、流行を追ったりしちゃダメなんです。そういう作家はすぐに消えていくんです。さみしくてもつらくても、世間の流行とどんだけズレてても、自分が良いと思ったことを徹底的に書くしかないんです。君なら絶対、それができます。


■20年後にお会いしましょう

もちろんエンタメの世界だって、誰かの作品を丸パクリにすればアウトなわけで、そういう意味では孤独な作業です。それに、いまは昔の文学事情と違って、エンタメと純文学の差は曖昧になっていて、ほとんどポストモダン小説と言っても良いような舞城王太郎が、ラノベ雑誌で活躍していたりしますし、逆に、こんなの娯楽小説じゃないかと思うような吉田修一みたいな人が、いちおう純文学という看板で商売してたりします。その意味では、あんまりアートだからエンタメだからと考え込む必要はないのかもしれません。ただ、1年間で教えられることって、基本中の基本しかないんですよね。

毎週3時間の授業を1年間、つまり30回教えるということは、都合90時間しかないということです。社会に出たら1日8時間働きますが、そのペース配分で考えると、せいぜい10日間ちょっと、2週間くらいの日数しか、私と皆さんは接してないわけです。それだけの時間で基本を超えた応用技とか例外規則まで教えるというのはまず不可能な話で、所詮は王道中の王道しか教えられない。エンタメは約束事をきっちり守って大多数の客を掴み、アートは孤独でも自分の信じたものを書いて少数者に届けるという、王道中の王道。そのくらいがまぁ限界なんです。

それぞれのオリジナルな応用技とか、独自の創作の視点とかは、今後は皆さんが自分の力で、見つけだすしかありません。その意味でやっぱり創作というのは、誰にとっても孤独な作業なんだろうなと思います。いままで学校で課題出すのも、かったりーなーとか、めんどくせーなーとか思ってたでしょうが、これからは誰も強制してくれませんし、つい楽な方向に流れることも多くなるでしょう。そこで自分の欲とかサボり根性に勝てるかどうか。大変なのは、これからです。

美術やイラストの分野では、私は実に多くの人に接してきました。まったく芽の出てない作家志望者からアマチュア作家、プロ作家から世界的大作家まで、その対象は実に多彩です。ですが、最初に書いた通り、皆さんは本当に優秀です。皆さんは少なくとも潜在的な能力だけ見れば、既にプロ作家とまったく遜色ありません。私がそれは太鼓判を押します。あとは、本当に粘りだけです。5年後、10年後、いや、20年後でも構いません。いつか作家としての皆さんに再会できる日を、心から楽しみにしています。本当に卒業おめでとう、健闘を祈ってます。