ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』

 今日は仕事の合間あいまにネルソン・グッドマン『世界制作の方法』という本を読んでいました。思いっきり哲学書です。なんで急にこんな本を読んでるのかというと、つい先だって見たこの展覧会のタイトルが、まさにこの本から採られているからです。

「世界制作の方法」国立国際美術館
http://d.hatena.ne.jp/higuchi1967/20111006/1317861227


 どんな難解な本かと思って読み始めましたが、いわゆる相対論のマイルドなもので、意外に読みやすく楽しい本です。事実としての一つの世界があるのでなく、さまざまな視点らか眺められた「世界たち」のバージョンがあるとする、ちょっと不思議な本です。


 「世界たち」と言っても、いわゆるパラレルワールドとか可能世界論的な議論ではありません。ゴッホの眺めた世界と科学の眺めた世界とは違うように、世界の解釈のバージョンが複数あるという考え方。ウンベルトエーコの「開かれた作品」にちょっと似てて「開かれた書物としての世界」とでもいえばいいでしょうか。


 たとえばアニメは実際には秒24コマ、少ない場合には秒8コマの静止画像の連続に過ぎないのに、私たちには動いて見える。もし科学的な視点意外絶対許さない人がアニメを見たら「これは静止画の連続なのだ、断じて絵が動いているのではない!」という話になるでしょうが、それではアニメを見て物語を感じることなど不可能になりますよね。つまりここには「静止画の連続」という世界と「動く絵」という、複数の世界のバージョンが同時に存在している、というわけ。


 そういえば、最近こんなサイトを見て面白かった。ゴッホ色覚異常だったという説に立って「ゴッホが感じていた(はずの)通りにゴッホの絵を色変換してみる」という試み。これもまた世界のバージョン違いかもしれません。

ゴッホの本当のすごさを知った日
http://asada0.tumblr.com/post/11323024757


 さて、グッドマンの考え方は哲学的にいうといわゆる「唯名論」というタイプの議論なのだそうで、素朴実在主義と対立する議論なんだそうです。私的にグッドマンの議論の巧妙なところと思えるのは、いわゆる科学的な実在主義も、世界についての「バージョン」の一つとして繰り込んでしまうところです。なるほど、こういう考え方なら「どっちが正しいのか」で喧嘩になることはありません。科学者の見た世界もゴッホの見た世界も、いずれも世界のバージョン違いなのですから。


 グッドマンの展開するこうした議論は、一見アートと馴染みが良いように思えます。いろんな世界の見方を示すのがアート、ということになるのですから。けれども、たとえば「もの派」を代表する批評家=作家のリー・ウーハンのように「石という観念そのものがここにある!」と断言した人の作品は、一体どう考えれば良いのでしょうか。うまく交通整理する方法ってあるのかな。


 それともう一つ私が気になるのは、歴史修正主義のようなものを、グッドマンはどう考えるのかということです。ナチスの考え方も関東軍の考え方も世界のバージョン違い、と済ましてしまうわけにはいきませんからね。グッドマンのこうした議論は、かつて英文学者の由良君美さんが『メタフィクション脱構築』という本で展開した議論とも一部被るように思えますが、実は由良さんにもちょっと修正主義的な姿勢が見え隠れすることがあって、そのあたり、ほんと難しいと思います。


 ともあれ、いろいろ考えさせられるし面白い本です。アートの関係者にはもちろんお薦めだけれど、文学関係や科学関係の方にも結構面白い本なのではないかと思います。

ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』
http://amzn.to/nB65SA