「わたしたちは粒であると同時に波のよう」厚地朋子、須賀悠介

 @kcuaでのグループ展「わたしたちは粒であると同時に波のよう」のようす。上二点は厚地朋子さん。関西ではなかなか見ることのできない作家なので、久しぶりに見られて嬉しかったです。遠近法の解体、モチーフの解体というところに大きな特色があるかと。だまし絵に近いアプローチになってきましたね。できたら関西でも個展開いて欲しいのですが、そういうわけにはいかないのかなあ。というわけで厚地朋子《コメディー》(2013)。



 厚地さんの作品の背後からは、日本的風景の解体みたいなものが、うっすら伺えることがあります。ご本人は決して意識してのことではないそうですが、そのあたりが私にとっては非常に興味深いです。下は厚地朋子《シンパシー》(2012)。この解体への共感は何を意味するのでしょうか。



 厚地さん目当てで行った展覧会だったのですが、須賀悠介さんも非常に面白かったです。須賀さんは太郎賞を取っておいでなんですね。「動き」「運動」みたいなものを感じさせる作品が多いのが面白い。未来派の立体版というべきか。でももっとワイルドな感じがします。下は《Jailbreak(bowling)》(2013)。Jailbreakとは脱獄、転じてハッキングのことだそうです。そんな不穏な感じがムンムン漂う作品です。



 この下の作品も須賀さんの作品。《Mediator(Night call)》(2013)。ヘルメットの風防には疾走する道路の映像が映し出されています。このライダーは身体が空っぽですが「夢は枯れ野を駆け巡る」ということでしょうか。ひょっとすると事故死したライダーの亡霊なのかも。首筋のところにコンセントが刺さっていて猫背なのが、ちょっとエヴァンゲリオンを思わせます。



 須賀悠介《Destructor(17:29:30)》(2013)。この作品も単に時計を二つ組み合わせただけ、というのではなく、両方とも動いているという点が味噌です。耳を澄ますとカチッ、カチッという音がしてて、両方とも動いていることがわかるのですが、双方の力が拮抗しているため、まったく進むことがない。止まっているけど動いている、という逆説。美術作品というものの宿命的な性質を物語っているようでもあります。タイトルのDestructorは焼却炉、破壊装置、転じてソフトウエア用語でオブジェクトの破棄を行う関数のことだとか。やはり破壊的なイメージです。